石井光太氏講演レポート(前編)

先日、私も中心となって企画した石井光太氏の講演会がありました。大変刺激を受け、気付かされることでした。何人かの方からリクエストがあったのでちょっとしたレポートを書きました。膨大になりそうなのでまずは前編。

遺された人々にとっての〈かみさま〉

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2月20日、石井光太氏の講演を企画開催した。タイトルは「遺された人々にとっての〈かみさま〉」。お寺でのお話でかみさまとは、浄土真宗はそういうところはナーバスになりがちなので少し気にしたが、石井氏の著作『遺体』を読んだ時からの「これだ」という思いはブレなかった。むしろ1月末に『津波の墓標』の出版によって、確信を持って開催できた。筆者は企画者の一員であり、大震災以来定期的に現地を訪れている一若手僧侶という面から、今回の講演の覚書をかねてレポートしたい。
石井氏はのっけからやや早口でずばずばとその体験を話してくれた。
ときには耳をおおいたくなるような話を間髪入れずに持ってくる。
3.11に東京で被災し、すぐに東北へ取材に行こうと決めたこと。一番最初に手を上げてくれた小学館のもと、現地へ赴いた。私たちがテレビで見ることができたのはいくらひどい状況であっても、少なくとも瓦礫が幾分片付いて道ができてからのことでしかない。片付く前は一面3〜4メートルの針の山だ。これらを越えていくのはよじ登る感覚とのこと。筆者が初めて石巻に向かったときはすでにできた道を拡張していくところだったので、その感覚は気づかなかったが指摘を受けると非常に納得のできるものだった。
そこには死の光景しかなかった。手製の旗の下にはご遺体がある。警察を呼んでくださいと頼まれるも電波がないので繋がらない。また目印になるものも全て流されていまい、地元の人間でない石井氏は一度離れたら戻れない状況だった。ご遺体を動かそうにも運べない、先に触れたように足場の悪い針の山だ。
石井が特に印象的だったのは車の中のご遺体だったという指摘。車で逃げると湾岸線から隣町へ続く山越えの道は限られている。そこに車が殺到すれば当然大渋滞が起こり、そのまま津波に襲われた。数珠つなぎになって倒れている車中には、全部ご遺体が乗っていた。これらの搬送にはまずは地元の消防団があたった。自衛隊や警察の方々も地図を見ても壊滅してしまった町で読むことができず動けない。地元の人間が動いていくしかない。そのなかで石井氏が実感されたのがお寺の存在だった。(お寺で話してるから言うのではないと補足あり)
この部分は阪神大震災との大きな違いで、阪神のときは地元の商店街などのコミュニティが大きな役割を果たしたが、今回もっと田舎の東北ではお寺のコミュニティがそれを担った。そもそもお寺は高台にあるケースが多く、避難所指定されていなくても500、600人の避難者を受け入れることになった。そのような消防団やお寺の住職らが他地域から来た自衛隊や警察にアドバイスしながら動いた現状があった。
遺体捜索でもっとも大変だと感じたことは死後硬直。車中で亡くなった方は座席に座ったままの体勢で硬直してしまう。電柱、木にしがみついて亡くなった方は、必死でしがみついたままで死後硬直している。死後硬直は筋肉をマッサージすることによって解きほぐしていけるが、遺体に接したことのない人々が捜索した今回のケースでは、手足を折って運ぶしかなかった。担架に横たわる事もできないご遺体を担いで針の山のような瓦礫の上を搬送はできない。とはいえ遺体捜索しているのも地元の方々。同じ地域で暮らしていた同級生、親など知人友人のご遺体に対面し、手を合わせながら手足を折る。そのような光景がそこかしこで見られた。
取材中車でラジオを聞いていると誰それが多額の寄付をしたなどという話ばかりで違和感を感じた。この震災の被害者は誰なのか。第一は亡くなられた方であり、遺された方であろう。その方々が取り残されている感じがした。ノンフィクション作家として石井氏がスポットを当てる場所、亡くなった方、遺された方が集まる場所、それが遺体安置所だった。
遺体安置所は役所と警察が決定していくため、役所の所有する土地になることが多い。今回は廃校などが遺体安置所となった。ここを担当する職員は、市の職員が急に任されることになる。ある日突然スポーツ課とかと生活課といったところから遺体安置所や遺体搬送にあたる辞令が出る。
遺体安置所は警察も担当している。遺体安置所の役割というのは、遺体を保管しておくという役割と遺族とご遺体を照合する役割がある。身元確認を警察が担当していた。
警察・自衛隊・消防が遺体を捜索し、見つかったご遺体を市の職員らが運ぶ。遺体安置所で最初に担当するのが警察だ。ご遺体はヘドロにまみれている。ガソリンなども混じり、ドロドロですごい臭いを放っている。これを警察が洗い流すのだが、水道管が破裂していて水の確保ができない。このためプールなどに水を汲みにいき、僅かな水で洗い流す。石井氏は演台にあった500mlのミネラルウォーターを手に取り、これくらいの量と示してくれた。目の前のペットボトルを介して、その際の情景、ご苦労が染み入ってくる。
続いて担当するのは医師。ほとんどが地元の医師であった。普段は孤独死などでの検死、死亡診断書の作成など契約されている医師はいるが、今回のようなケースでは町中の医師が駆り出された。しかし死亡診断書を作ろうにも作れない。器具も整っていないし、なぜ死んだのかわからない。そんななか多くの医師たちがあげた一つの目安は、胸を強く押した時に口や鼻から気泡状の泥が出てくるかだった。津波によって水が肺に溜まっているため、押した時に気泡状のものがプチプチと出てくる。こうしたケースは津波による窒息死と判断して良いだろうと。しかし火災によって焼けてしまった人もいるため、調べようがなく、ほとんどは津波による死という仮の状態にするよりほかなかった。
もう一つ医師の重要な役割はDNA鑑定の資料を集めること。爪などは警察担当だが、体液は流れ出てしまっている。唯一残されている可能性が高いのは心臓の血液だ。医師は心臓から血液を採取することが出来るため、この役割を受け持っていた。
次は歯科医による身元確認が行われる。歯型による確認だが、これも困難を極めた。死後硬直で開かない口をテコの原理でこじ開けると泥が溢れ出たり、焼けて炭状になったご遺体の場合口が取れてしまうこともあった。
この後に遺族との本人確認がある。多くの場合、外に特徴を記録したメモを張り、(おおよその年齢や身長体重、性別など)申し出があったところで会ってもらい、本人か確認するという流れだった。
しかし身元の確認は難航する。最初期の頃こそ損傷の少ないご遺体が多かったが、1週間もすると水に濡れたご遺体はブヨブヨになってしまう。すると実際は40代の方でも80代とメモされたり、反対のことも起こる。
どれくらい変わってしまうか、確認に来た家族が顔だけでは本人か確認できないほどの変わり様だったとのこと。自分のお父さん、お母さんかどうかわからない、そのような方が(統計を取っていないので何割と言い切れないが)かなりの数にのぼっていた印象。
もっとひどい場合もある。1週間どころか1日立たないうちに見つかっても遺体の取り違えという事が起こった。60代の夫婦が津波に遭い、夫の目の前で妻は波に飲まれて亡くなった。波が引いて町中を探すとすぐ近所で女性の遺体が見つかった。自分の妻であった。翌朝遺体安置所に運んでもらい、息子たちとともに家族て見守った。早い段階で本人確認できたので、1週間で火葬できるまでの間、お化粧もして見守り続け、火葬して無事に送り出した。うちは早い段階に見つかってよかったなという安堵の気持ちのもと過ごしていたそうだ。
それが昨年の夏、北海道に住む親族から連絡があり、埋葬したのは本当にお母さんだったのかと確認された。どういうことか尋ねると、警察のホームページで公開されている身元不明者の遺品が明らかにお母さんのものであると。確認してみるとたしかに一つひとつがみなお母さんのものである。けれどお母さんは家族みんなで本人確認をし、1週間もの間見続けたのだ。遺体の写真を確認したが、やはりブヨブヨになっていて判別できない。最終的にDNA鑑定したところ、自分たち家族全員が顔を確認して、1週間お世話しお化粧もし、きれいにしていたご遺体が実はお母さんではなかった。ぜんぜん違う女性をお母さんだと思い、埋葬してした。津波の状況は住んでいる人間の心をかき乱す。何とか見つかって欲しいという気持ちのなかで、ぜんぜん違う女性をお母さんだと思い込んでしまう。それも一人ではなく家族全員がそのように思ってしまう。震災は目に見える傷だけでなく心にも大きなダメージを与えている。
これを受けたお寺は大変だった。東北の地域ではお墓に埋葬する際、壺から出してお骨をそのまま納めてしまうため、取り違えたからといってきれいに取り出すことはできない。間違えたのはこちら側、相手もお母さんを探していたのだから、返してくれと要求する。その間に立たされたのは地元のお寺の住職であった。
このように紙で特徴を見たり、直接対面してもわからない状況がそこにはあった。それでもなんとかしなければならなかった、それが震災における現実であった。
遺体安置所において本人と特定できた場合、死亡診断書が出され、火葬することが出来る。しかし今回の震災で非常に大変だったことの一つがこの火葬であった。もともと被災した多くの地域は火葬場も一箇所であったり、炉の数も限られている。通常ならば通常ならば問題ないのだが、今回は一度に1年、あるいは2年分の遺体を一度に抱えることになってしまった。そもそも火葬場自体が津波の影響を受けたところもあった。釜石などは津波の被害はなくても、地震による炉の故障、その後の停電などで処理能力が大幅に落ち込んだ。ようやく修理できたのが震災から5日ほどたってからの事だった。
火葬場が回復しても、1日に50体もの遺体があがってくる状況ではとても間に合わない。さらに津波とは別の死因で亡くなる方もいる。病死であったり震災によるショックであったり、あるいはもともと体の弱った方は冷たい避難所での生活が死に繋がってしまう。近隣都市に要請を出そうにも、そこまで行くガソリンが無く、また受け入れる側も地震の被害があったり、そもそも処理能力に余裕のあるところは多くはなく難航した。東京も火葬に手を上げたがそれでも1週間はかかった。このような状況の中政府は土葬を容認し事実上推し進めていく方針を出した。この時点でほとんどの被災地は土葬の方針を固めた。最終的にはもっと少ない自治体のみにとどまったが、状況の好転しない最初期にはほぼすべてが土葬やむなしという論調であった。
けれどもこの土葬が多くの論議を巻き起こす。釜石も40年ほど前までは土葬の習慣があったという。それでも今回は土葬に反対するいけんが圧倒的だった。これは今現在の私たちが家族を失い土葬するという状況とは全く違うからである。たとえば場所。お寺の敷地内にそれほどの空き地がなければ埋められるわけではない。するとどこか空き地に埋めるよりほかはない。宮城県東松島市ではそれがリサイクルセンターの空き地であった。はっきり言ってしまえば、ごみのリサイクル場の脇に埋められるということである。さらに言えば、遺族はお葬式もあげられない、お経の一つもない、体を洗ってやることもできない、場合によってお棺さえもない状況があった。このような状況の中でゴミ捨て場の脇に埋められると言うのは、遺族にとってものすごく無念なことだ。そもそも遺族は自分が生き残ったことに対して大変な罪悪感を感じている。なぜ息子が死んで自分は生き残ってしまったか、なぜ助けてあげられなかったか、なぜそばに居てあげられなかったか。こうした罪悪感・責任感は被災者ではに私たちが想像するよりもずっと大きい。お葬式もなく、お経もなく、ゴミ捨て場の脇に埋められ、さらに数年後掘り返されてもう一度埋葬という状況を受け入れることは、本人たちの無念さも相まってそれだけはやめてくれという意見となって現れる。石井氏が出会ったなかで、こんな状況だから土葬もしょうがないよと普通に言うことができた人は一人としていなかった。それほど震災の混乱の状況にある遺族にとって、土葬というのは苦痛なものであった。
そうはいっても現実問題として、遺体を放置していたら腐敗が進んでいってしまう。今回は3月の東北であったため腐敗の進みが遅かった。関東大震災では真夏の東京ど真ん中で2日で遺体は腐ってしまったことを考えると、あくまで遺体の保存という観点からだが不幸中の幸いという面もあった。このように考えると自治体の衛生的な面からの決断としては土葬もやむなしとなる。しかし政治的な決断、衛生的な決断、いわゆる合理的な決断と被災者の心理というのは必ずしも一致しない。平常時に落ち着いて考えれば理解できるだろうが、それを越えた状況の中では頭ではわかっていても受け入れることはできない。
そしてその相談の窓口は無論、市の職員ではない。宗教者や葬儀社に土葬を止めてくれないかという声が寄せられた。石井氏が傍から見ていても本当にその苦労が窺われた。最終的に土葬を決行した自治体は一握りで、多くはぎりぎりの所で火葬に至った。
筆者が有志の仲間と定期的に通っている宮城県亘理町も土葬をした自治体の一つである。『津波の墓標』を読んで初めて知ったのだが、より詳しく掘り下げていただいた。
亘理はお寺の裏地に土葬をしたのだが、4ヶ月ほど経った夏ごろに掘り返して火葬をやり直せという行政判断が下った。それにあたって市の職員は一切関与せず、受け入れた寺院側で何とかせよという事になった。受け入れた寺院側は震災後避難所にもなって、裏手に土地もあるのでなんとかしてあげたいという一心であった。反対に市の職員の立場から考えれば、遺体を触ったこともない、見たこともないような市の職員たちではもっと無理な話であり、宗教者に任せるしかなかった。業者を呼ぼうにも予算がない。住職とその家族、地元のボランティアが中心となって作業にあたった。
震災から4ヶ月が経ち夏を迎えていた。当然ながら遺体は腐っていた。震災の時に使った棺は一律に1番安いものに統一していた。遺体安置所で一方は高級なもの、もう一方は安いものとしてしまうとクレームが出るので、全て安いもので発注をかけたためだ。そもそも棺の作りがそこまでしっかりしていない、それを直接地面に埋めている。その中に人間が入っていて、腐敗した液体が漏れ出ている。すると掘り返す際に、棺自体が腐ってしまったり底が抜けたりということが起こった。また棺は大丈夫なのものも中の遺体は腐敗し、溜まった液体を抜かなくてはならなかった。葬儀社のボランティアが特殊なビニールを見つけてくれ、それをくるんで火葬場に行った。この場面に遺族が立ち会うため、宗教者はその点についてもケアが必要だった。避難所としての苦労もあるが、このような場面においても宗教者の苦労を見ることとなった。

〈続〉

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