釈徹宗先生のお話を聞いて 真宗入門公開講座雑感 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA8月31日の真宗入門公開講座で釈徹宗先生にお越しいただき、お話をいただきました。先生らしく浄土真宗のみで突き詰めるのではなく、他と比較しながらわかりやすい言葉で浄土真宗の特徴を語ってくださいました。

こうした先生のお話であったこともあり、初めて明願寺に来られた方も多かったように思います。ありがたいことです。

自分への備忘録も兼ねてすこし印象に残ったことばを並べて振り返ってみました。

正しいと思った瞬間に見えなくなることがある。阪神大震災のがれき撤去の際は1日活動すると目に見えてきれいになった部分があり、やった感があった。東日本大震災のがれき撤去は1日やっても、ふと見ると周りは広大ながれきの山で達成感がない。そんな思いで大阪に帰ってみると自分より良い体格の若者がコンビニの前にたむろしている、思わず東北行ってがれき撤去すればいいのにと思ってしまう。そのとき、あかんあかん、自分が正しいと思っていると振り返る。その人達もどんな苦しみを抱えているのかわからないのに、自分が正しさを押し付けてしまっている。

まったくそのとおりだと思います。自分が正しいことやってるんだと思うと突き進んでしまう怖さがあると思います。私も震災支援ネットワーク東海の活動で東北に足を運びますが、自分の正義を振りかざすようなことがないよう気をつけねばと感じることです。

GR310573釈先生ならではの浄土宗、浄土真宗、時宗のお念仏を大切にする3つの宗派の比較宗教学のお話でした。すこしお勉強チックなお話になってしまいますが、その分一回の話で3つ学べるお得な講座ですと会場を和ませてくれました。プロジェクターも用いて視覚からも訴えかけるものがありました。

この3つの宗派は、帰るところのある人生を生きる仏道である。法然聖人、親鸞聖人、一遍上人の思想を比較するうえで、その人の生い立ちを見ていくと、法然聖人は官僚の子として、親鸞聖人は下級貴族の子として、一遍上人は土地持ちの商売人の子として生まれ育っていった。それぞれの個性が、同じようなお念仏を大切にする教えであるにもかかわらず、違いが生まれてくる一つのきっかけになったかもしれない。

面白い指摘であり、たしかにそうだなぁと感じました。学説というところまではいかないけれど、こうした講座にはしっくりくる話で、比較宗教学を専門とされている先生ならではの部分でした。

法然聖人は論理的に従来の教えを2つに分けて選びとる、この論理的な構築のもとにお念仏を選びとった。一遍上人はその分けたものを融合していく。親鸞聖人はこの2つをどっちも抱えたまま行ったり来たりする人である。息苦しくなるような緊張感が親鸞聖人のうちへうちへを向かう仏道にある。帰るところがある私だけれど、逃げ続ける私。ずっと着地されずに宙吊りにされるような仏道、それが浄土真宗である。突き詰めれば帰るところがある、ただいま、おかえりって無条件に抱いてくれる教えだけれど、つねに私が問われながら行ったり来たりする、それが浄土真宗である。

ここはとてもありがたかったです。ともするとご法話のなかで、帰るところのある人生を歩ませてもらってる安心感だけで終わってしまうご法話もあります。(私自身気をつけなければ)
けれども同時に私たちは問われ続けているのだと。社会生活、家庭生活を毎日を営む私たちに仏教がどのように関わっていくか、そこに「つねに問われ続けている」という視点が加わることによって、今ここに生きる私たちの日々に仏法がコネクトしてくるものだと思います。
釈先生が例えに出していただいた(もったいないことです)ように、私自身震災支援ネットワーク東海の活動でボランティアの際には、気づくとそうしたところが現れます。悩みながら、でも何もしないのはちがう気がして。相手あってことだけれど、何を求められているのか、どうすることが相手のためだろう、相手のためって何だろう。ぐるぐるぐるぐる、行ったり来たり悩みながらの活動です。
これは何もボランティアの話だけではなく、私たちの毎日の生活に響いてくるもの。帰るところのある人生を歩ませてもらっている温かさと、つねに問われ続けている緊張感と。抱えながら仏道を歩ませていただくのかなと感じたことでした。