家族葬について岡崎の僧侶が思うこと

20131226-070641.jpg今年は大変お葬式が多い年でした。私が帰っての8年間ではもちろんながら、父である住職も30年を超える明願寺の僧侶として初めての経験だったと言います。そのなかで目立つのは「家族葬」という言葉です。とはいえ家族葬というのも決まった定義はまだないようです。本当に家族のみという家族葬はほとんどありません。強いて共通点をあげるならば、煩わしさを避け、地域のつきあいからの人を呼ばないケースが多いように思います。
これには家族形態の変化が一因である気がします。仕事の都合などで年配の親世代とその子ども世代が別々に暮らしていることが多くなりました。こうした生活の中では子ども世代は親の生き様に触れることなく過ごします。すると親の育んできた生き生きとした人間関係や地域とのつながりを感じることがありません。親の営んできた様々な関係性に気づくことは困難です。
またそれに追い打ちを掛けるように多くの方が子ども世代に伝えるのが冒頭にも出てきた「迷惑かけたくない」ことからくる「お葬式は簡単にしてくれればいいよ」の一言です。親世代が経験してきた地域密着の自宅葬、その後続いた社葬での義理ばかりの付き合いへのアンチテーゼかもしれません。
とはいえこの「簡単」は様々な意味を含みます。「お金をかけない」「人を呼ばない」などなど…。これを真に受けた多くの子ども世代の方々は煩わしさを避け、人も呼ばない、お金もかけない家族葬が故人の希望だったんだとなっていきます。
しかし本当にそうでしょうか?私がお参りする中でも、本当はしっかりお別れをしたかったがお友達が知らぬ間に亡くなってしまい、知らぬ間にお葬式が終わっていたというケースに数多く出会います。中にはたまたま聞きつけて飛んでいったけれども、身内のみの式のためホールに入れてもらえなかったという方もいらっしゃいました。こうした方は義理でいやいや参列するわけではありません。生きている時にかけがえのない仲間であった人にただただ手を合わせたい一心で向かわれた方ばかりです。こうした方がお別れをする場が失われてしまうのはつらいものがあります。お寺に帰ってたかだか8年の私ですら、この方の葬儀なら仲良しの〇〇さんや△△さんがいそうなものなのに…と寂しい思いをすることもあります。ましてずっと長くお付き合いのある住職はなおさらです。これは葬儀が小規模になると坊さんの収入にかかわるとかそんな話ではありません。(もちろん困ることは困るでしょうが、そうしたこととは質が違う、命の尊厳の問題です)
また家族葬にされた人も後々になって、手を合わせたかった人(先ほど出てきたような心からお参りしたい人)がポツポツとお家に訪れて、かえって手間がかかったという話もしばしば耳にします。お葬式はそうしたけじめを一度で済ます意義もあったと思います。
こうしたことに対し、僧侶も具体的な姿勢を示してこなかった面が多分にあります。葬儀の意義や仏事の意味を伝えてこなかったこと。また伝えるにしても伝統的な意味や本質論にこだわり、現代における意味付けにマッチしきれなかったことも反省すべきだと感じます。時代は変化し続けています。本質は変わりませんが、現代人が受け止めやすいかたちでお届けできるよう私たち僧侶も考えるべき点は多いです。
もちろんそれぞれのご家庭の事情がありますので、ケースバイケースであることは間違いありません。けれども岡崎市においても家族葬という言葉ばかりがひとり歩きしている印象があります。トレンドだからと安易に家族葬を選ばれるのでなく、どういった特徴があるか考えないと、自分が意図したものとズレてしまう可能性が高いです。親しい友達など、逆の立場になったとき(友達が亡くなったとき)手を合わせに行きたい人がいるならば、自分が亡くなったときはその友達にはお葬式に呼んでほしい旨を子ども世代に伝えておくことも大事なことではないでしょうか。
最近、住職はたびたび法話でみなさんにお話すると思います。「大きな祭壇じゃなくていい。お金をかけて立派にしろとは言わない。けれども生きている時に縁あった人たちがちゃんとお別れできるように、きちんと声をかけるよう子どもさんに伝えておいてね。くれぐれも簡単に済ませてくれればいいなんて言っちゃダメだよ」と。