なぜお寺で子どもの行事をしようと思ったか語ります

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この数日子どものイベントについて書いてきました。

私は大学院を卒業して、明願寺に帰ってきてから、毎年子どもの行事を続けてきました。「なぜお寺で子どもの行事をやるのか?」について触れてみたいと思います。
当時読んでいた本の影響もあり、すこし偏った見方かもしれません。子どもたちの価値観が、学校の成績のよしあしに縛られすぎている印象を持っていました。
またお参り先での小学校の先生の話は、大きなインパクトがありました。
それは教え子たちの多くが、給食の煮物に対して食わず嫌いが多いというものでした。その原因の一因は核家族にありそうだということでした。現代において、じいちゃん、ばあちゃんと一緒に住んでいる子どもは稀になってきました。若夫婦と子どもという構成であると、どうしても炒め物や焼いたものになりがちで、手間のかかる煮物は敬遠されがちです。すると子どもたちは普段から煮物を食べる機会が少ない。その結果として、食べる前から煮物なんて食べたくないという子どもが増えたのではという分析でした。実際は食べたことがないから敬遠しているだけですから、「食べてみようよ!」と勧めてみると、おいしいおいしいと食べるのだそうです。

私が子どもの頃でも、勉強の成績は重視されましたが、もっと以前は勉強ができる子、勉強はできなくても体育の時間は輝く子、学校では光らないけれど放課後はヒーロー、どこでも目立つのもないけれど毎日お手伝いはしっかりできる子など、それぞれが評価されていた時代がありました。
ここにも核家族化に関わるところがあるように思います。子育てをしていて感じるのですが、若夫婦が自分の子どもを育てることと、私の父や母(=祖父母)が孫をみるのは育てるというプレッシャーがだいぶ違うようです。自分の息子や娘であれば、一人前に育てねばという責任がつねに付いて回ります。そうすると褒めるところがあっても、学校の成績を無視できないところが出てきます。ところが祖父母はもっと余裕があります。先ほどの例でいうならば、お手伝いのところなどはまさにじいちゃん、ばあちゃんの専売特許でしょう。

このようななかで最初にも述べましたが、現代の子どもたちは学校の成績に縛られ過ぎていると感じました。けれどもそれは、子どもたちにとって過酷です。一つの価値観というのは一つの世界ということです。生きられる世界、生きられるコミュニティが一つしかなければ、そこで過ごせなくなったら逃げ場がありません。逃げ場があるというゆとりがあってはじめてのびのびと過ごせるということもあるでしょう。もちろん現代においても、ピアノが得意な子が習い事といういきいきコミュニティを持っていたり、スイミングやスポーツ少年団など、学校とは別のコミュニティを持っている子もいると思います。これはとても大事なことなのではないかと考えています。そうした学校の価値観が及ばないコミュニティの一つに、お寺もなりたいなと思って、子どもの居場所としての寺院を考えたことでした。

ただしこれは自分の息子の運動会のかけっこ姿を見て、ジレンマとして現れてきたわけですが。それについては以前の記事を。

まだまだ年数回しか子ども向け行事は開催していないような現状ですが、お参りに来た子どもにはちょっとお土産をあげたりして、お寺に親しんでほしいなと思っています。今後も学校の成績、価値観が及ばないコミュニティ、居場所としての寺院を目指していきたいなと感じることです。